エグゼクティブアスリート

第4回Executive Athlete Talk Live

エグゼクティブアスリート
松下浩二氏 プロフィール

1967年生まれ、愛知県出身。
プロ卓球選手第1号、また日本人初ドイツ・ブンデスリーガに参戦など卓球界のパイオニアとして第一線で活躍。現役時代は全日本選手権、シングル4度、男子ダブルス7度の優勝を誇り、世界卓球選手権やアジア選手権など世界大会でも団体で銅メダルを獲得。オリンピックはバルセロナからシドニーまで4大会連続出場を果たす。
引退後は、卓球用品メーカー「VICTAS」の代表取締役社長、日本卓球協会理事を歴任。2017年には一般社団法人Tリーグ・チェアマンとして日本卓球の新リーグ「Tリーグ」発足に尽力するなど、日本の卓球界に大きく貢献。

 

1. おおらかな時代の意図なき英才教育

松下氏

西田:松下さんのことは誰もがご存じだと思いますので、本日は卓球の元全日本チャンピオン、世界選手権メダリストとしての松下さんというよりは、卓球を通じての学びが、引退後に経営されたヤマト卓球や、Tリーグの発足・運営にどのように活かされているのかについて詳しくお聞きしたいと思います。

松下氏:わかりました。どうぞ宜しくお願いします。

西田:まず、卓球との出会いについてから簡単に教えていただけますか?

松下氏:私には5つ上の兄がいるのですが、中学生になった兄が部活で卓球を始めたのです。部活だけでは強くなれないので、父が近くにあった民間の卓球場まで兄を車で送迎するようになり、双子の弟と一緒に付いていったのが最初の出会いになります。

西田:そこで自然に卓球に触れるようになったのですね。

松下氏:そうですね。その後、運動好きの両親の血を引いたのか、兄も全国大会へ行くレベルになり、地元豊橋の卓球の名門、桜丘高校に特待生で進学しました。その桜丘高校の卓球部の監督さんがご近所の知り合いで、当時小学4年生だった私たちに「お前たちもやるか?」という感じで誘って下さり、思いがけず高校での練習に参加することになりました。今考えると、おおらかな時代でした。

西田:ある意味、英才教育ですね。小学生が高校生の練習に交じって卓球をやり始めたのですよね。ジュニアチームを作った感じです。

松下氏:さすがに高校生と一緒にやることはありませんでしたが、すぐ横で全国大会レベルの高校生がプレーしているわけで、「ああやっているんだぁ」とか間近に見ながら練習していましたから、直ぐに上達しました。中学生になる頃には一つ上のカテゴリーの方と対戦しても負けない感じでしたね。

西田:高校は桜丘高校へ進学したわけですね。

松下氏:はい。弟と桜丘高校で卓球を続けました。ただ、二年生、三年生の時も全国で二位。インターハイでも一位になったことはありませんでした。同じ学年に渋谷浩さんという強敵がいたのです。彼のお父さんは元全日本チャンピオンで当時最強だった明治大学卓球部の監督さん。彼は中学生から大学生と一緒に練習していたわけで敵いませんでしたね。

西田:上には上がいたわけですね。でも、松下さんも明治大学に進学されたので、そこで渋谷さんと一緒になったわけですね。

松下氏:明治大学入学後は一緒に日本選手権を7回優勝しました。世界選手権でも団体銅メダル。お互いカットマン同士で相性も良かったです。

2. ビジネスでも成功を目指す秘めた強かさ

西田

西田:大学卒業後はそれぞれ異なる会社の社会人チームへ進まれたわけですね。

松下氏:渋谷さんは川崎製鉄千葉、私は弟と一緒に協和発酵でお世話になることになりました。実は大学に明治大学を選んだのも、将来の就職のことを考えてのことでした。6大学なので就職に有利になるのではないかと思ったのです。これまで親には散々迷惑をかけてきましたので、その恩返しをするためにも卓球ばかりやっていては意味がないと思っていました。

西田:えっ、卓球に対して冷めている側面もあったのですね!

松下氏:そういう思いは大学3年生くらいから強くなっていきましたね。日の丸を背負って大会には出ていましたが、卓球をやっていてもお金にはならないし自己満足に過ぎないのではないかと思ったのです。だったら、会社に入ったら社長になってやる!と。協和発酵にお世話になることになったのも、同社は定時まで働かせてもらえる環境だったからです。一般に他の会社は午前中だけ働けばよいという条件でしたが、それでは出世できないのではないかと思いました。

西田:松下さんの場合、とにかく卓球に打ち込んで他は何も考えないというのではなく、一方で冷静に自らを客観視する自分がいて、その先のことまで考えていらしたのですね。

松下氏:就職する前に、卓球への思いに整理を付ける意味で、一度、外の世界を見てみたいと思って、当時世界一のスウェーデンへ卓球留学しようと考えました。師匠である明治大学の児玉総監督に相談したところ、カットマンである自分の手の内を明かしてしまいかねない留学には反対でしたが、とにかくプロリーグが発足した卓球先進国を見てみたかったので、帰国後は全日本で優勝するとか、いろいろ誓約書を書いて承諾を得て留学を果たしました。

西田:児玉総監督の反対を押し切ってまで。実際に留学してみて何を得たのでしょう?

松下氏:留学したチームの同僚に、1988年のオリンピックで銅メダルを取った選手がいたのです。卓球だけで食べていました。それどころかBMWのオープンカーに乗っていて、お招きを受けた家も大きくてお庭も広い。卓球選手でもこんなに儲かるのだと思いました(笑)。でも、練習の時はもの凄くストイックでした。ちょっとでもミスをすると自身を責めて怒り狂う。自分にめちゃめちゃ厳しい。私がミスしても、「どうしてそんな簡単なことでミスをするのか?」と突いてくるわけです。

西田:プロですね。

松下氏:私はこれまで文武両道を信念としてきました。ただ、このスウェーデンの選手に出会って、一つのことに命を懸けることも素晴らしいと思うようになりました。そして、漠然と日本にもこんなプロのシステムがあるといいなぁと思いました。

3. 大胆な行動が人生を決めた

松下氏

西田:Tリーグ構想のカケラがそこにあったのですね。そういう思いを胸に帰国して実際に会社で働いてみてどうだったのですか?

松下氏:社長になってやると意義込んで入社しましたが、実際に働いてみると同僚が物凄く優秀だったのです。彼らが話している内容すらわからない(笑)。これは明らかに自分とは実力差があるなぁと思いました。

西田:えらいところに来てしまったと(笑)。

松下氏:そして、もう一つ気付いたことがありました。卓球で入った先輩たちの中で部長へ昇格した人がいなかったのです。世界選手権に出ている先輩も、ほとんどが卓球に絡んだ仕事をしていました。そこで自分の将来が見えてしまった気分になりました。

西田:人生の岐路に立ったわけですね。

松下氏:今の状況では会社にいても中途半端で終わってしまう。自分には卓球しかない。であればいっその事プロになるか。いや、一部上場企業なのに本当に辞めるのか?そんなリスクが負えるのか?そんなことが頭の中を渦巻きました。周囲にも相談しましたが、相談した100人中98人が反対でした。

西田:その結果、リスクを取ってプロの道を選んだわけですね。

松下氏:先が見えていたので、リスクとは感じませんでした。1992年のオリンピックに出場できて、オリンピアの肩書が得られれば、プロになっても食べてはいけると思ったので、それを果たしたらプロになろうと思いました。

西田:協和発酵はプロへのステータス変更を認めてくれたのですか?

松下氏:いえ、それはNGでした。そこで思案して、日産自動車の卓球部顧問の小山さんにアポイントメントを取らずに会いに行きました。小山さんは大学の時に日産に来ないかと誘って下さった方で、当時の日産の藤井副社長と兄弟分のような間柄でした。当時はチームの移籍はご法度。直観で監督や部長に話を通したら上手くいかないと感じたので、直に小山さんと話をしたらいけるかもと思って、今度はアポイントメントなしで小山さんを訪ねました。受付に怪訝な顔をされながらも面会をお願いし、運よく在席されていた小山さんにお会いすることができたのです。それで単刀直入に「自分を引き取って下さい」とお願いしました。

西田:大企業にアポイントメントなしで会いに行ってしまう発想というか、大胆な行動を取ってしまうとところが常人ではないですね。普通、ノーアポでは行きませんよね。そのようなところにも、数々の“日本初”というものを成し遂げて来られた素地があるのでしょうね。

松下氏:単に怖いもの知らずだったのでしょう(笑)。でも小山さんはその時「あとは俺に任せろ」と言って下さいました。

4.「日本初のプロ」のプレッシャー

松下氏

西田:そこから日本初のプロ卓球選手人生が始まったのですね。

松下氏:実際にプロになってみると、気負って全然勝てない(笑)。周囲にはプロなのに何で負けるの?と見られてしまいます。

西田:どうやってそのプレッシャーを跳ねのけたのですか?

松下氏:結局、努力を継続するしかないのです。誰よりもやる、それだけです。朝昼晩と10キロ、一日30キロ以上走りこみました。14時間くらい練習しました。周囲からはそんなにやって大丈夫かと言われました。でも、それくらいやらないと日本チャンピオンにはなれない。

西田:結果が出たのは?

松下氏:忘れもしません、初優勝は1993年12月。準々決勝の相手はシチズンの伊藤君という同級生だったのですけどゲームカウント1-2で負けていて、第4ゲームも14-20の絶体絶命だったのですが、8ポイント連続で取って逆転勝ちしました。準決勝も1-2からの逆転勝ち、決勝も1-2で負けていたところからひっくり返し、全て逆転勝ちでの初優勝でした。特に、14-20からの逆転は卓球ではほぼあり得ないのです。1000回やったら1回勝てるかどうかくらいなのです。それができたのは本当に運が良かったです。

西田:どうしてそのような奇跡のような勝ち方ができたと思いますか?

松下氏:感謝の力ですね。観客席を見ると皆、プロになった自分を応援してくれている。勝ちたいというよりも、自分を応援してくれている皆さんに申し訳ない。だから一生懸命やる。その時、本当に目に見えない不思議な力があるなぁと感じました。

5.ビジネスへの挑戦

松下氏

西田:日本初のプロとして活躍されて2009年1月に引退されますね。

松下氏:41歳で引退して、マネジメント会社を立ち上げて、水谷隼等のマネジメントをしました。後輩たちに自分が経験してきた煩わしさを味合せていけないという思いがありました。ところが、だんだん面倒見ているのもつまらなくなってきました(笑)。数人の選手の面倒みるだけで本当に良いのか。もっと社会に貢献できることはないのか。それには経済的な体力も必要なので何が稼げる方法はないのか?と。

西田:早稲田大学大学院で学ばれたのは、そんな自問自答をされていた時でしょうか?

松下氏:早稲田では、自分の枠から離れたことをすると75%失敗する、と学びました。自分には卓球しかありません。では卓球メーカーをやるのか?そんな時に、ふと閃いたのがヤマト卓球でした。自分が選手時代に、当時のヤマト卓球の社長から冗談交じりにお金を貸してほしいと言われていたことを思い出したのです。もしかしたら今でもキャッシュフローが大変なのではないかと。

西田:それでまたノーアポで社長へ会いに行った?(笑)

松下氏:社長にお会いして単刀直入に、「社会に還元したい、だから社長の会社を譲ってくれませんか?」とお願いしました。結果的に社長は条件があえばいいよと言ってくれました。その当時、ヤマト卓球には負債が15億円、社員も80名いたのですが、その借金の肩代わりと雇用を守ることが条件でした。

西田:これまた途方もない条件ですね。

松下氏:はい、お金集めが必要です。そこで思い付いたのが、スウェーデン行きを咎めた明治大学の児玉総監督です。元々児玉総監督はダイコーというエレベーター会社の副社長の職にありましたが、50歳の時にスヴェンソンというウィッグの会社を譲り受け、20年経ったところでキャッシュフローも潤沢に回り始めているところでした。

西田:相談を受けた児玉総監督は即断されたのですね。

松下氏:「それはいい話。俺が出してやる」と。その2か月半後に社長就任の記者会見をしました。

西田:松下さんの岐路には、いつも児玉総監督の存在があるような感じがしますね。

松下氏:確かにそうかもしれません。

6.5年で日本一の会社へ

松下氏

西田:スポーツアスリートがいきなりヤマト卓球という会社の経営に乗り出したわけですから、相当な苦難やチャレンジがあったのでしょうね。

松下氏:そうですね、まず、5~6億円のキャッシュを投入しました。元々関西で営業力があったのと、自分の元全日本チャンピオンとしてのブランドを使えば何とかなるのではないか、という勝算は持っていました。

西田:具体的にはどのように戦ったのですか?

松下氏:まず、皆で日本一、世界一の会社にしましょうという目標を掲げました。そして、例えばここでオリンピックの契約選手を入れるとか、どこにも負けないラバーを開発するとか、10年後日本一になりますみたいなロードマップを描きました。その上で、現状では国内3位だけど1位とどこが違うのか、営業では勝っている、だったら、良い商品がでたら絶対に負けない、そうすれば売れますよね?と社員に徹底的に問いかけました。皆自分が言ったことは守ろうとするのです。だから、数値をコミットさせました。でも、“やらせる”のはダメで、“自らがやる”と言うようにリードしなければ動きません。そして結果を出した社員には、やった分だけ報酬で報いる。

西田:松下さんが先頭に立って動かれたのですよね。

松下氏:誰よりも働くようにしました。朝と夜のオフィスの開錠施錠は私がやりました。世界一の会社にしたいのなら世界一努力しなければなりません。「卓球会社の社長が来るのは初めてです」と言われるような小さな小売店まで全国を隈なく回りました。一見無駄なように思えても、そういう小さな努力の積み重ねから次第に信用が生まれ広まっていくのです。それで最初の公約通り、黒字転換させて5年で日本一の会社にできました。

西田:目標が達成できた肝は何だったと思いますか?

松下氏:やはり社員だなと思いました。今いる社員をどう活かすかです。社員はひとり一人、価値観が異なります。趣味に生きたい人は、それはそれで構わない。お金を稼ぎたい人には、頑張って成果を出してもらえたらそれに応じて給料を上げる。やはりプロセスがとても大切で、やらなければならないことをしっかりやっていれば、自ずと結果は付いてくるのだと思います。卓球と同じですね。

7.Tリーグ立ち上げのきっかけとハードル

松下氏と西田

西田:ヤマト卓球を再生した後、いよいよTリーグを立ち上げることになりますね。

松下氏:ヤマト卓球を日本一の会社にしたところで、また思ってしまったのです。結局、契約選手、お客さまのサポートしかしていないのではないかと。もっと日本全国を取り囲む仕事がしたい、それにはやはりプロの卓球リーグを設立するしかないと思いました。でも、そのためには片手間はよくない、そこで退路を断ち切る決心をしました。

西田:立ち上げには相当なハードルがありましたよね。Jリーグ、Bリーグが先行する中で、当時、卓球は難しいのではないかという雰囲気がありましたよね。

松下氏:皆さんから無理だと言われましたね。でも、死に物狂いになって1年半で立ち上げました。もう、日本のためだという正義感、後輩のセカンドキャリアのため、子供に夢を与えるため、その信念だけでした。自分のためならやる必要ない。

西田:現役時代には海外でもプレーされていらしたので、そこでの学も活かされたわけですね。

松下氏:スウェーデンの他に、日本人として初めてドイツ、フランス、中国でプレーしていましたから、当時世界NO.1のリーグだったドイツの仕組みもわかっていましたし、フランスも研究していました。中国のプロリーグの凄まじさも実感していました。申し上げるまでもなく、どの国も組織的に選手を育てています。日本の場合はまだ個々に“母親の力”で育てているに過ぎません。北京のナショナルトレーニングセンターは物凄く立派なのですが、そもそも5人くらいしか代表にはなれないところに100人の練習相手がいるのです。そこへ行くと、選手も本当に真剣で、会話は卓球の話しか出てきません。文字通り卓球漬けになっているわけです。その点、日本だと普段は卓球から離れてリラックスするという考え方があります。でも中国の選手は卓球から一瞬たりとも離れません。競争が本当に激しく、やり続けないと落ちてしまうのです。それは、それだけ人生の全てを懸ける報酬があるからです。ラケット一本で億万長者になれるのです。

西田:海外の卓球先進国とはまだまだ乖離がある中で、今後、Tリーグをどのようにしていきたいですか?

松下氏:設立して二年、ファンもまだ十分に積みあがっていませんし、仕組みも整ってはいません。ここから更にしっかりとしたリーグにしていきたいと思っています。そして、中期的にはアジアに進出してアジアのチャンピオンリーグを立ち上げて、アジアの卓球マーケットを拡大させて、ビジネスの実入りも大きくしていきたいと思います。Tリーグの下部リーグ組織も作っていきたいですし、自立もしていかなくてはならない。まだまだ、スポンサーの皆さんに助けていただいているので、自力で稼げる力をつけたいです。やること山積ですね。

西田:そんな中で、ヤマト卓球を再生させたときのような勝算はありますか?

松下氏:勝算はありますよ。アジアです。アジアでは割と大きなお金が落とせる仕組みがつくれると思っています。というのは、国内で有名企業が広告する必要性に比べると、アジアで広告する価値や必要性は圧倒的に高い。特に中国を絡ませると大きなお金が動くと考えています。加えて、入場料のみならず、ベッティング(賭け)やカジノなど複合的なビジネスへ広げていくこともできる。そのために、例えば、Tリーグ自体がベッティング会社を立ち上げてプロモートしても良いと思っています。

西田:それは大きな夢がありますね!もう、松下さんがビジネスパーソンにしか見えません(笑)。最後に、仕事とスポーツの両立を目指す皆さんへメッセージをお願いできますか。

松下氏:スポーツと仕事の両立は必要です。でも両方するには、二倍の努力をする覚悟も必要です。決心すれば、ある程度のことはできる。何かを成し遂げるためには何かを犠牲にしなければならないので簡単ではありません。でも、私は一心に念じればある程度のことは叶うと思っています。そのためには運を呼び込むことが必要ですが、それには裏打ちされた努力があってこそだと思っています。努力の積み上げなくして、次のステージには行けません。仮に失敗しても努力は無駄にはなりません。なぜなら、努力は積みあがるので、次の人生の糧に必ずなるからです。

西田:努力の積み重ねは無駄にはならない、裏切らないということですね。素敵なお話を本当にありがとうございました!