エグゼクティブアスリート

第7回Executive Athlete Talk Live

エグゼクティブアスリート
野澤武史氏 プロフィール

1979年東京生まれの41歳。慶応義塾大学法学部卒。元プロラグビー選手(神戸製鋼コベルコスティフース所属)。ポジションはフランカー(FL)。ニックネームはゴリ。日本代表キャップは4。U19日本代表やU23日本代表に選ばれたことがある。現役引退後は家業の株式会社山川出版社 代表取締役副社長を務めながら、母校のヘッドコーチを歴任。現在は公益財団法人日本ラグビーフットボール協会にて若年層の発掘・育成を担当。グロービス経営大学院修了(MBA取得)。

 

1. ラクビーを止めるな!

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西田:ビジネス界においてエグゼクティブでありながら、スポーツにも同等かそれ以上に情熱を注ぎ真剣に取り組んでいる“エグゼクティブ・アスリート”をご紹介するこの企画、ご協力下さりありがとうございます。今、「#ラクビーを止めるな2020」 が本当に大きな反響を呼んでいますね!

野澤氏:こちらこそ宜しくお願いします。そうなのです。想像以上の反響があり、ラクビーばかりか他のスポーツへも波及していて非常に良い流れになっています。

西田:この「#ラクビーを止めるな2020」 は野澤さんのアイディアなのですよね?

野澤氏:言い出しっぺは僕ですね。最初のコンセプトを私が考えて、それを慶應の中学からの親友である最上(電通)に相談して、他の仲間3人と一緒に詰めて仕上げました。

西田:この取り組みは、新型コロナウイルス感染症による自粛で、公式戦への出場機会を失った高校3年生の救済が目的なのですよね?

野澤氏:はい、これまでの自身のベストプレー集を動画にしてTwitter上にアップしてもらい、それを元日本代表の廣瀬俊朗や私などがリツイートして拡散し、大学のリクルーターや関係者の皆さんの目に触れるようにするのが目的です。人気のある動画ですと再生回数が5万回を超えるものもあって、アップして2時間後にスカウトから連絡が来たというケースも出ています。

西田:「ラクビーを止めるな!2020」はアイディアも素晴らしいですが、それがすぐ結果に結びついているのが凄いですね。

野澤氏:ありがとうございます。でも、裏側ではそれなりの仕掛けもしているのです。例えば、高校の先生140人以上に「こういう企画を始めますので生徒に動画をアップさせて下さい!」という連絡をダイレクトに取りました。また、同様に、現役のトップ選手、かつての日本代表選手や大学の関係者の皆さんへもご連絡してご協力をお願いしました。

西田:野澤さんが日本ラクビー協会の育成担当のお立場で、選手発掘のために地方をくまなく回ってきた成果がこんな場面でも生かされているわけですね。地方に埋もれている体格に恵まれた逸材を掘り起こす「ビックマン&ファストマン キャンプ」を仕掛けたのも野澤さんですよね?

野澤氏:逸材の眠っている地方は足で稼ぐしかありません。高校時代までは、どうしても活躍の場がある関東、近畿、九州圏の選手が目立ってしまい、大学の推薦枠も独占してしまいがちですが、上にいけば行くほど一芸に秀でた選手は魅力的になります。残念ながら地方には体格に恵まれた逸材がいるにも関わらず、スカウトの目に止まる機会が少ないので、ラクビーでの進学を諦めてしまったり、ラクビー自体をやめてしまう選手が少なくありません。「ビックマン&ファストマンキャンプ」は、まさにそういう地方の逸材にスポットライトを浴びせるイベントです。

西田:そういった活動を継続していると、自然に選手の情報が野澤さんのところへ集まってくるのではないでしょうか?

野澤氏:ありがたいことに数年間各地にお邪魔させて頂いた結果、次第に自分に人材の情報も集まってくるようにもなりました。このように、ドサ回りと知略を合体させることを自分で「ドサ戦略」と呼んでいますが(笑)、今回の「#ラクビーを止めるな2020」も、知力と体力をフルに使った施策でした。

2. 反復学習の徹底

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西田:特に知力の源泉は後でじっくり伺うとして、まずは、野澤さんの生い立ちから伺ってもよいでしょうか?野澤さんはあの歴史教科書でおなじみの山川出版社の副社長のお立場でもいらっしゃいますが、家業の承継を意識されたタイミングも含め、どんな幼少時代を過ごされたのでしょうか?

野澤氏:山川出版社は、昭和23年に祖父の野澤繁二が社名となった山川氏からの出資を受け、東京大学の史学会が編集する史学雑誌を出版したのが始まりでした。その後、昭和26年にGHQ政策で国定教科書の編さんが民間におりてきたのを機に、当時からお世話になっていた東京大学の先生達のご協力を仰ぎながら歴史教科書を出版したということが今の事業につながっています。そこから、事業ドメインも売上高も従業員数もこの数年変わっていません。

西田:そうなのですね!でもビジネスの外景が変わっていないのは驚きです。印刷技術や編さんプロセスは進化しているはずですよね?

野澤氏:安易に原価を下げるためにパートナーを変えないのが弊社の信条です。ほとんどの会社が会長の代からのお付き合いのある方々なのです。それが長い目で見れば安定した経営をもたらすという発想です。 幼少期に話を戻すと、父は事業承継については何も言わない人でしたが、祖父からは子供に分かる言葉で後を継ぐような話をよく聞かされていて、何の疑いもなくそういうものだと思って育ちました。

西田:特にプレッシャーを感じることもなく、所謂、帝王学を受けることもなかったのでしょうか?

野澤氏:幸いにも家族内での揉め事は一切ない平和な家庭環境で育ちましたので、自然と自分の宿命を受け入れられたのかもしれません。正直、苦労もなく、人を信じやすい性格でした。嫌なことをされても全く気付かない(笑)。ずっと人気者だとも思っていて、大人になってからそうでもないと知ってびっくりしました(笑)。おめでたいですよね(笑)。一方で、母親は教育熱心で、今思うとスパルタ教育でしたね。

西田:野澤さんの性格の温厚さは表面から滲み出ていますよね。そうですか、お母様が厳しくていらして、それで慶應幼稚舎も受験することになったのですね。

野澤氏:母が先生役となって、とにかく反復することを徹底されましたね。でも、その原体験が後に随分と役に立ったと思っています。

3. 天国と地獄

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西田:ラクビーとの出会いは慶應初等部ですか?

野澤氏:はい。慶應幼稚舎(小学校)は5年生で部活が始まるのですが、上級生たちの試合を見てこれしかないと直観で思いました。今でこそラクビー選手としては小柄な方ですが、子供の頃は発育が早くて、体が周囲よりひと回り大きく、ガキ大将的な存在でした。身体能力が他の子より勝っていましたから、ボールを持って走って置いたら得点、というゲームに直ぐに夢中になりました。とにかく、誰よりも早く前に行く。一番にならないと気が済まない性格で、他人にもあまり興味がないところもありました。ラクビーとの相性もよかったのだと思います。

西田:でも、ラクビーはOne for All、All for Oneのスポーツですよね。

野澤氏:ラクビー精神としてはそうなのですけど、私の場合はフランカーというポジションだったので、一番前衛にいて相手を追い駆け回す役割なのです。視野には相手の15人しか入らない。一匹狼にもってこいのポジションでした。とにかく前へ、前へ、です(笑)

西田:その後、普通部(中学)、高校へと進まれて、着実にラクビーの戦績を積んでいったのですよね。

野澤氏:中学時代は東日本大会で負け知らず。10試合して相手には10得点しか与えない圧倒的な強さがありました。その中心メンバーの一人が、先ほど「#ラクビーを止めるな2020」の話の中に出てきた電通の最上です。

西田:高校では花園への出場も果たしたのですよね。

野澤氏:そうですね。高校へいっても宿敵を破って28年ぶりに出場した花園でベスト8、大学では2年生の時に14年ぶりの優勝を飾るなど勢いが止まりませんでした。その頃の慶應大学は東大にすら負けることもある厳しい時代もあったのですが、自分の代は選手の粒もそろっていて本当に強かったのです。この時期は自分の絶頂期でした。小中高大学とずっとキャプテンも務めていましたし、監督が選手の自律を求める方でしたので、練習メニューも自分達で決めさせてくれました。今思い返すと大学2年生までは、何をやっても上手くいく状態だったので、何も怖いものはありませんでした。そして、ボールを持てば、5万人の大歓声が沸き上がるのです。

西田:そんな鳥肌ものの絶頂体験、普通の人は絶対にできないですよね。でも、そこをピークに運気は下り坂になったのですか?

野澤氏:20歳で大学選手権優勝。優勝したら世界最高峰のニュージーランドへ留学すると決めていたので、ニュージーランドのクラブチームに入りましたが、21歳で日本代表に選出されたため、実質3か月で帰国しました。また、大学4年生で、はじめて目標に到達できずに大学選手権はベスト4止まり。既にラグビーの成長曲線はなだらかになっていたことにも気付かず、当然の流れで卒業後はお誘いを受けた神戸製鋼に入社しました。でも、神戸製鋼時代、とうとうトップリーグで活躍する機会はほとんどありませんでした。天狗になっていたのですね。慢心がありました。

西田:一転、その時代が一番辛かった時代なのですね。

4. 裏方仕事で初めて見えたもの

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野澤氏:辛かった時期が長かったですね。22歳が転機で、そこから32歳くらいまでずっと何をやっても思い通りになりませんでした。大学までは入ったらすぐレギュラーでしたから、下積み仕事も全く経験したことがありませんでしたので、神戸製鋼で初めて雑用のようなことを経験しました。

西田:どんな仕事ですか?

野澤氏:ウォーターボーイです。3年間、水を運んでお給料をもらっていたようなものなので、プロ契約だった僕の運ぶ水は相当に高かったはずです(笑)。でも、ウォーターボーイは単に水を運ぶだけではなくて、この頃からイヤホンを付けて監督の意向を伝える伝令役も担っていたのです。監督の目線からはどう見えているのか、どんな意図でどんな指示をするのか、今まで何の貢献もできていなかった自分が、ラクビーを俯瞰して見る機会となって、次第にラクビーに向き合う気持ちも前向きになっていきました。

西田:栄光の日々との落差が激しいですね。でも、そのウォーターボーイとしての初めての下積み経験から何か行動変容は生まれたのでしょうか?

野澤氏:トップリーグに出られない選手のアピールのために2軍の試合があるのですが、実際のところ、選手はそのための練習はあまりしないのです。でも、全体練習が終わった後、自分が呼び掛けて、みんなで練習を始めました。その甲斐あって、2軍の試合では自分でも信じられないくらい凄いプレー、素晴らしい試合ができたのです。その時の感動は5万人の前でする試合以上に充実していて泣けました。今まではある意味、人に評価されるためにやっていたのが、はじめて自分で納得するためにプレーできた瞬間でした。

西田:それはいろいろ胸に去来するものがあったのでしょうね。その後、29歳で引退されるのですよね。

野澤氏:引退後、家業の山川出版社で働き始める傍ら、土日と夜を使って、パートタイムで慶應高校、大学ラグビー部のヘッドコーチをそれぞれ2年間しました。でも結果を残せず、辞めることになりました。

西田:何が原因だったと思いますか?

野澤氏:選手たちの側に立って考えてあげることができていなかったことが原因です。自分の時代の成功体験で、有無を言わさず、こういうものだと決めつけていたところがあったのは否めません。ヘッドコーチを2年務めたシーズン終了後、4年生になる選手達からOB会に不信任案を提出され、解任となりました。ヘッドコーチの後は監督をやるものと勝手に思っていたのでショックでしたね。

5. 人生の転換点

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野澤氏:そんな時に、同じコーチ仲間から、将来はどのみち家業に本腰を入れなければならないのだからMBAでも取得した方がよいのではないかと言われたのです。そこで、一番実践的と評判だったグロービス経営大学院へ入学しました。それが、私の人生の転機になりました。

西田:実際にMBAの授業を受けてみて如何でしたか?

野澤氏:忘れもしません。アカウンティングの授業の時です。グロービスではクラスパーティシペーション、すなわち、クラスに貢献する発言の量と質が成績を決める際に重視されるのですが、アカウンティング担当の尾関先生の2回目の授業の時に、先生からの問いに対してどっちともつかないような適当な発言をしたのです。その時、尾関先生に「だからあなたは経営者として成功できないんだよ!」と怒られたのです。あの一言で目が覚めました。今でも尾関さんには感謝しかありません。

西田:一度発した言葉には魂が宿りますからね。特に経営者であるからには、その重みを実感してほしいと言うことだったのでしょうね。

野澤氏:もともと算数なんて大の苦手でしたし、経常利益という言葉すら知りませんでした(笑)。そこから我武者羅に勉強しました。そして、最後には苦手だったファイナンス系授業ではオールAを取るまでになり、修了時には上位成績者5%にも入ることができたのです。その時、思ったのが、「自分が成功できなかったのは実力がないのではなく、ただ努力が足りなかったんだ。やればできるんだ」ということでした。たくさんの量をこなせば質も変わることをあらためて学びました。ここで母からの学びに戻るんですね(笑)。

西田:一方で、日本ラグビー協会ではコーチングも学んでいらっしゃいますよね。

野澤氏:はい、その頃のコーチングは、世界最先端のラグビーを教えるということに過ぎなかったのですが、そうではなくて、コーチングディレクターの中竹さんから主体者の顧客満足度、つまり如何に選手を満足させるか、みんなが行きたい場所に連れていくか、についてのノウハウを学ぶことができました。中竹さんは今でも私の師匠です。

西田:コーチングは対話形式で学んでいくのですか?

野澤氏:一緒にコーチングをしながら学んでいくパターンと、コーチングキャンプというものがあって、全国から高校の先生と、トップリーグ出身のコーチが一緒にキャンプをやる中で、実際にコーチをしてみて失敗から学んでいくというのがあります。その場では、コーチングの1000本ノックみたいな状況が常にあって、アンラーンを余儀なくされるのです。ある時、120人くらいの高校生にコーチをしている最中に中竹さんから「ズレているから全部変えてくれ」と言われて、相当なパニック状態になったことを覚えています。そうした修羅場体験を何度も繰り返しながら鍛えられていくのです。もう、あんな経験はしたくありませんが(笑)。

西田:コーチングを学ぶ過程で、これまでの自分の指導の仕方等を振り返ることもあるのでしょうね。

野澤氏:母校のコーチを引き受けた時、自分の母校だから優勝して当たり前だったので当然全員がそういうモチベーションだろうとか、慶應なのだからこういうマインドセットでやってくれて当然という、その頃の学生の考えを理解しようという気持ちが薄かったことを反省しました。主役はあくまでも学生なのに。

西田:MBAの学び、ラクビーでの学びは実際のビジネスでも生かされているのでしょうね。

野澤氏:山川出版社では早々に社内にCP事業部を立ち上げ、グロービスで一番仲の良かった仲間も参加してくれました。特に、柴沼先生の「イノベーションによる事業構造変革」で学んだ変革リーダーに必要な7つのスキル、①環境の察知、②変化自在の思考、③ビジョンの提示、④後援者・支持者のバイイン、⑤実行部隊の組成、⑥中間期のコミット、⑦惜しみない称賛、をバイブルとして活用することで、やるべき行動が明確化されました。 一方で、ラクビーで学んだ決断力もビジネスで生きています。あんなに極限のところで迫られる決断は、普通は体験し得ないものなので、自分にとっての大きな強みにもなっています。MBAで学んだロジカル思考と、ラクビーで鍛えられた決断力の両方を活かすことで、他にはない自分なりの新たな付加価値が生まれると思っています。

6. スポーツマンのアフターキャリア問題

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西田:野澤さんは現役引退後に母校のコーチ、日本ラクビー協会の職にもついていますが、家業もありますし、そういった意味では恵まれていますよね。今、特にスポーツ選手の現役引退後の在り方が問題になっていますが、野澤さん自身、この問題をどう考えていますか?

野澤氏:僕はアスリートのサードキャリアの支援が重要だと思っています。引退と同時にセカンドキャリアは全アスリートに訪れます。そこでビジネスが軌道に乗り、成功できた人はそれでいい。でも、それまで学ぶ機会がなかった人が成功できるほど甘いものではありません。何か試して、失敗して、それから学んでもいい。真剣度が違うはずです。失敗してもやり直せる社会を作ることは、社会の先輩である元アスリートの我々が道を作るべきではないでしょうか。 結果的に人生のトータルバランスがとれていれたらよいわけですから、その年代で夢中になることを一生懸命突き抜けるまでやり通すのが良いのではないでしょうか。負け続けたって最後の最後に一発で逆転できることもある。King’s Warの項羽と劉邦のように、途中はどんなに負けていても最後に劉邦が勝つみたいに。

西田:野澤さん自身は、今後のご自身の展開をどう考えているのですか?

野澤氏:私は今のようにラクビーに携わるのはあと数年ではないかと思っています。気力と体力があってこんなに爆発的アウトプットが出せるのは今だけでしょう。ここで学んだことを将来は教育業界に活かしたいと思っています。50歳を目途に、教育業界にある課題を解決させたいと思っています。

7. ライフワークバランスは生涯かけて帳尻を合わせる

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西田:なるほど、生涯かけての計画が既にあるのですね。そうなると、益々家庭と仕事とラクビー、サードキャリアとのバランスが難しくなりますね。

野澤氏:それは生涯かけて帳尻合わせするしかないと思っています。今は正直、365日休みがありません。体のケアや家族との時間が十分に取れていません。ライフワークバランスといいますが、私は「今」ではなく「生涯」という時間軸でバランスがとれていればいいと考えます。今はラクビーというツールを使って社会課題を解決する仕組みを作ることに楽しみと使命感を感じています。怒られそうですが家族にはちょっと我慢して頂いて(笑)、今自分がやるべきことにまい進したい。

西田:最後にスポーツとビジネスの両立にチャレンジしている方々へメッセージをお願いします。

野澤氏:スポーツで学んだことをビジネスで使い、ビジネスで学んだことをスポーツで活かすことですかね。ただ、それには、すぐマネタイズするとか、さもしい目的意識でなくて、利他の心で本気で、使命感ベースで動かないとダメだと思います。そして突き詰める。短期的スパンではなく時間軸をもって、世の中のためになる価値を生み出す。「より良い形にして次の世代にバトンを渡す」イメージが重要です。人生のどの尺で何に責任を持つのか、どのタイミングで、何をどう生かし、何に貢献するか、計画性をもちつつ、その瞬間の判断を大切にすることで、有限である“人生の価値”を感じられるのではないかと思います。

西田:野澤さん、素晴らしいお話をありがとうございました。